Amazonプライムで公開されているエヴァンゲリオンシリーズの最終作『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』を遅ればせながら拝観したので、今回はその感想を記したいと思います。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』は興行収入が100億円を超える大ヒットで、ファンからの評価も上々です。
その理由として、『今までの伏線がしっかりと回収された』、『主要な登場人物の動向を丁寧に描いた』、『みんなが抱えていた苦悩から開放されハッピーエンドだった』など様々な意見があるようです。
また、古くからのファンに対するサービスシーン的な要素(アヤナミレイの制服シーンなど)が多かったことや、ロボットアニメとしてのレベルも高かったことなども高評価に繋がっているようです。
特に、今回の『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』でエヴァンゲリオンの物語が作中ループしていることが濃厚となり、過去の作品も回収する形で上手く仕上がっていると考えるファンが多く見受けられます。
確かにそれは事実なのかもしれませんが、私は今回の『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』における大事なポイントはそこではないと思っています。
エヴァンゲリオンの原作者であり、テレビ版では監督、以降の作品では総監督を務める庵野秀明監督が思い描くエヴァンゲリオンのラストシーンは、25年前に完結したテレビシリーズと何も変わっていないと私は考えています。
エヴァンゲリオンでは、テレビ版から一貫して全人類が1つの生命体となる『人類補完計画』という計画が重要なキーポイントとなっていました。
しかし庵野秀明が描きたい本当の人類補完計画は、視聴者と制作者あるいは庵野監督自身が1つの世界を共有する世界なのではないでしょうか?(仮にこれを『視聴者補完計画』とします)
テレビ版の最終回では、作中で描かれる人類補完計画の結末を一切描かずに1枚絵やテキストテロップを多用し、更にはラフ画や線画、挙句の果てにはセリフの書かれた台本をそのまま映し出したりしています。
これは明らかにアニメ制作の現実を視聴者に見せているわけです。
こういったシーンを最後の最後にもってくるということは、庵野監督にとって大事なことが作中で描かれている人類補完計画ではなく、視聴者補完計画である証明なのだと思います。
しかし当時の視聴者はそんなことを理解ができるわけもなく、ストーリーに沿った内容の制作を投げ出し、簡単な作画ととってつけたようなエピソードを付け足したて強引に話を終わらせたようにしか感じませんでした。
旧劇場版も、物語の終盤に作中の登場人物がスタジオで演技をするシーンがあったり実写を取り入れたりと、作中のストーリーを超越した世界が展開されます。
旧劇場版で特に目立った演出は映画館の客席を実写で映し出すシーンで、これは映画を観に来た人たちが自分自身が画面に映っているような錯覚に陥らさせる手法であり、紛れもない視聴者補完計画と言えます。
今回の『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』も、旧劇場版と同じように登場人物が撮影スタジオに行ったり、絵コンテやラフ画のまま物語が進んだりと視聴者補完計画が展開されていました。
つまり、テレビ版、旧劇場版、新劇場版もラストは同じ視聴者補完計画が描かれているわけです。
このようにエヴァンゲリオンのラストシーンで描かれることは変わっていないにもかかわらず、評価が大きく違った理由は何でしょう?
その答えは時代が変わったということです。
テレビ版のエヴァンゲリオンが終了したのは1996年、旧劇場版の公開が1997年、今回の『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』(新劇場版のラスト)は2021年公開ですから、テレビ版からは25年、旧劇場版からは24年弱の時が過ぎていることになります。
その間に現実世界ではインターネットが発達し、ブログや動画サイトでエヴァンゲリオンに限らず様々な事柄に対し個人的な考察が発表される情報過多と呼ばれるような時代となりました。
そういった情報過多の時代の中で視聴者の思考もやっと庵野監督に追いつき、彼がエヴァンゲリオンで描こうとしていた世界を理解することが可能になったのだと思います。
今回の『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』も、決してわかりやすい内容ではありませんでした。
にもかかわらず評価が大幅に向上した理由は、観る側の理解度が上がったからに違いありません。
もし『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』を1997年に公開していたら、ほとんどの人に理解されず旧劇場版の『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』と同じような評価になっていたと考えられます。
そう考えると、制作が遅いと散々揶揄された新劇場版のヱヴァンゲリオンにとって、この25年は必要な年月だったのかもしれません。
現在、ブログや動画サイトには『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』のループ説を解説したものが数多くあります。
その中でされている考察は確かにその通りなのでしょうが、そこに大きな意味はないと私は思っています。
テレビ版の最終回では、主要な登場人物におけるラブコメ風の学園アニメが展開されますが、そんな世界にすらループできるのが制作者と視聴者が補完された世界です。
視聴者が望み制作者が作ろうと思えば、脱衣麻雀の世界にすらエヴァンゲリオンの登場人物は行けるのです。
それはアニメの中で展開されているストーリーを超越した世界であり、エヴァンゲリオンの作中で感じ取れるループなどは一端に過ぎないということです。
そして、この視聴者補完計画から抜け出すには現実の世界に戻るしかありません。
それが『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』のラストシーンにおける実写で描かれた宇部新川駅なのです。
ひょっとしたら、このループ世界から開放されたいと思っていたのはエヴァンゲリオンの登場人物ではなく、ファンまたは制作陣だったのかもしれません。
エヴァンゲリオンを見続ける、または制作し続けるというループを25年間続けてきたエヴァンゲリオンファンやエヴァンゲリオン制作陣は、エヴァンゲリオンという名の呪縛に捕らわれていた存在です。
その呪縛からの開放感も、今回の『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』が高評価である理由に繋がっているものと思われます。
そしてエヴァンゲリオンの呪縛にもっとも捕らわれていた人物が、エヴァンゲリオンという作品を生み出した庵野秀明監督自身であることは誰の目から見ても明らかでした。
だからこそ、エヴァンゲリオンの世界からエヴァのない世界へ解き放たれる場所として、監督自身の故郷である現実世界の宇部新川駅が選ばれたのでしょう。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』に関する考察は、公開から半年が過ぎた今現在も展開されています。
そういった考察を見て、エヴァンゲリオンの物語に深く納得している人も多く見受けられます。
しかしこのような考察の中で、作中の中で絵コンテやラフ画が出てくる疑問に対する考察はほとんどされていません。
作中のストーリーだけを追えば、こういった視聴者を補完するような描写は必要がないはずです。
にもかかわらず、テレビ版でも旧劇場版でも新劇場版でもアニメ制作に関わる描写や実写シーンなどをラストに描いているということは、エヴァンゲリオンは間違いなく作中で描かれるストーリー以外に大事な部分があるわけです。
ですからエヴァンゲリオンファンも作中の世界から抜け出し、そろそろ現実世界に戻るべきなのではないでしょうか?
それが庵野秀明監督のエヴァンゲリオンファンに対する最後のメッセージ『さようなら全てのエヴァンゲリオン』であるように私は思います。
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