シリーズ日本の第二次世界大戦④ 沖縄戦と現在の沖縄

歴史
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前回の真珠湾攻撃から話は一気に飛んで、今回は太平洋戦争における沖縄戦について書いていきます。
戦争における1つ1つの戦いの中身は、軍事専門家でもない限り深く掘り下げる問題ではないと思いますので、日中戦争・太平洋戦争の各戦いについて今回の『シリーズ日本の第二次世界大戦』で取り上げることはありません。(ちなみに南京事件については過去に取り上げました)

ただ、沖縄戦はその後の日本にも大きな影響を与えているため、取り上げなければならない問題です。
沖縄戦は、1945年3月26日から同年6月23日または7月2日まで行われた太平洋戦争最大の地上戦で、12万人以上の沖縄県民が犠牲になったと言われています。
これは当時の沖縄県民の4分の1に相当する人数で、現在の日本全体の比率で換算すると3000万人になるとてつもない人数の犠牲者数です。(当時の沖縄県民は疎開していたため人口は減っていた)

沖縄戦がこんなにも多くの犠牲者を生んだ理由は、非戦闘員である沖縄住民が犠牲になったからです。
では、なぜ沖縄住民の戦死者がここまで増えたのでしょうか?
その要因の1つになっているのが、沖縄戦におけるアメリカ軍の司令官であるサイモン・バックナーJr.中将から出された降伏勧告を日本軍側が受け入れなかったこと、また沖縄戦における日本陸軍の司令官・牛島満中将や参謀長・長勇少将などといった軍の上層部が自決してしまい戦闘の終結ができなかったことです。

通常、戦争における戦闘行為の停止は、戦闘に参加している軍の司令官同士が合意(一方の降伏を含む)し行われます。
しかし、沖縄戦を担当した日本陸軍第32軍で指揮を務める2人が同時に自決してしまい指揮系統が崩壊、そのため日本側の小規模な抵抗がいつまでも続き、被害を拡大させてしまいました。
更に、戦闘現場で指揮を行っていた第32軍所属の師団長なども、同時期に次々と自決や玉砕を行います。
以下、日本陸軍第32軍に所属していた軍上層部の主な戦死者や自決者です。

1945年6月21日、第5砲兵団司令官:和田孝助中将戦死
1945年6月22日、第62師団師団長:藤岡武雄中将自決
1945年6月22日、第62師団参謀長:上野貞臣大佐自決
1945年6月22日、歩兵第63旅団旅団長:中島徳太郎少将自決
1945年6月22日、歩兵第64旅団旅団長:有川主一少将自決
1945年6月22日、独立混成第44旅団旅団長:鈴木繁二少将玉砕の末戦死
1945年6月23日、第32軍司令官:牛島満中将自決
1945年6月23日、第32軍参謀長:長勇少将自決
1945年6月30日、第24師団師団長:雨宮巽中将自決
1945年6月30日、第24師団参謀長:木谷美雄大佐自決

この他に、沖縄戦における海軍側のトップだった沖縄方面根拠地隊司令官・大田實少将も1945年6月13日に自決し、日本陸軍第32軍で作戦を立案していた高級参謀の八原博通大佐は戦状報告のため戦線離脱と、沖縄戦における日本軍の指揮系統はことごとく崩壊していきました。
アメリカ軍はこの間、住民が逃げ込んだ地下壕を爆破または火炎放射器で攻撃するといった掃討作戦を行い、多くの沖縄住民が戦死していったのです。
アメリカ軍側からの降伏勧告が第32軍に届いたのが1945年6月17日で、沖縄戦の戦死者が1945年の6月後半に多くなっている事実から考えても、戦闘を正しく終結できなかったことが被害者を増やした大きな要因になっていることは間違いありません。

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