昭和時代に起こった将棋界のビックニュースをランキング形式でまとめました。
※ランクは個人の判断によるものです。
ランキング発表前にお知らせ
元々、当記事は『将棋界で起こったの衝撃的な出来事ベスト10(昭和~平成編)』というタイトルでしたが、最近、将棋界で大きな出来事が続いているので、当記事を『昭和編』として改変し、『平成編』を下記のリンク先で別途まとめした。(さらに内容も大幅に充実)

また、女流棋士に関するニュースは以下(女流棋士編)でまとめています。

15位:『おゆき』が大ヒット! 内藤國雄が歌手として大成功?
1976年から1977年にかけて「おゆき」が100万枚以上(CBS・ソニー、初発SOLB-409・、品番・価格改定06SH-606)を売り上げる大ヒットとなった
※売上枚数については諸説あります。
昔のプロ野球選手やお相撲さん、現役時代に、レコードを出している人が、結構いました
引用:昔のプロ野球選手やお相撲さん、現役時代に、レコードを出し… – Yahoo!知恵袋
当時は、歌手以外の有名人がレコードをこぞって出す時代でした。
2010年9月21日、「NHK歌謡コンサート」に出演、「おゆき」を熱唱する。
近年においてもテレビ番組などに歌手として出演することがあります。
14位:将棋界分裂!? 神田事件勃発
現在の日本将棋連盟は、将棋に関する全てを総括していると言っていい団体で、過去には東京将棋連盟→日本将棋連盟→将棋大成会→日本将棋連盟と名前を変えていったが・・・
実力制の名人戦が開始した1935年(昭和10年)の将棋界において、神田辰之助七段の八段への昇進をめぐって日本将棋連盟(旧)が分裂した事件。
プロ棋士が現在のような団体運営になっていく黎明期に、日本将棋連盟は分裂騒動を起こしています。
関根と72歳の小菅の尽力により1936年6月29日、東京・上野公園「精養軒」にて手打式が行われ、再統一が実現した。
分裂はしましたが、結局1年余りで元の鞘に戻りました。
1936年 – 将棋連盟と革新協会の2団体を統一し、将棋大成会となる。神田も名人戦に参加。
将棋指したちの団体は、大正末期から戦前までに紆余曲折がありながら統一していき、現在の形(日本将棋連盟)が完成していきました。
これは、同じく藩のお抱えだった相撲力士などでも起こった現象です。
13位:中学生棋士、羽生善治の登場
羽生善治三冠は昭和最後の中学生棋士で、主に平成に入り活躍しました。
平成期の活躍は、もはや説明する必要もないでしょう。
1985年12月18日に三段での13勝4敗を記録。この成績をもって、当時の規定により四段に昇段してプロに昇格。加藤一二三、谷川浩司に続く史上3人目の中学生棋士となる。
昭和も終盤に差し掛かった頃(当時は昭和がいつ終わるか当然分からなかったが)、1人の天才中学生棋士が誕生します。
10代から目覚ましい活躍をした羽生・村山・佐藤・森内の4人は、島朗によって「チャイルドブランド」と命名された(年上の森下卓(1966年7月10日- )も広義でチャイルドブランドの一人とされた)。「アンファン・テリブル」と呼ばれることもあった。
昭和の終わり頃には10代の若手プロが次々と誕生し、そしてすぐに将棋界で活躍しく時代でした。
『新人類』という言葉が流行語大賞に選ばれたのが1986年(昭和61年)のことで、将棋界でもまさに新人類が誕生したということでしょう。
羽生を一気にスターダムへ押し上げることになったのは、五段時代の第38回(1988年度)NHK杯戦である。大山康晴(3回戦)、加藤一二三(4回戦 = 準々決勝)、谷川浩司(準決勝)、中原誠(決勝)と、当時現役の名人経験者4人をすべて破るという、まるで作った舞台設定のような勝ち上がりで優勝した。
昭和がまさに終わる年に、羽生善治五段(当時)が名人経験者を総ナメにしてNHK杯で優勝したことは、平成という新しい時代の始まりを感じる出来事となりました。
12位:四冠達成! 米長邦雄の活躍
1984年度、中原誠と十段戦七番勝負を戦う。フルセットで迎えた最終局(1985年1月)に勝利し奪取。史上3人目の四冠王となり、7つのタイトルのうちの過半数を占めた。
米長永世棋聖は41歳での四冠達成ということで、晩成型の棋士といえるかもしれません。
俗に「世界一将棋の強い男」とも称された。
四冠を獲ったことで、『世界一将棋が強い男』と呼ばれたこともありました。
いまも将棋界の歴代対局数でトップなのは「中原米長戦」である。中原さんの最大のライバルが米長であったのは確乎たる事実だ。
引用:将棋話──『将棋世界』米長会長追悼号──秀でている内藤九段の追悼文 : 木屑鈔
中原vs米長は、当時最大のライバル決戦でした。
11位:升田幸三、名人に香を引いて勝つ!
「この幸三、名人に香車を引いて勝ったら大阪に行く」(「この幸三、名人に香を引くまで帰らん」とも)と書かれていたとされる。
升田幸三実力制名人は、プロ棋士になる前に名人に香を引く(名人に対して香落ちで勝つ)ことに宣言して大阪に出てきました。
実際にこのことが書いてある物差しが実在しているとのことです。
1956年(昭和31年)、弟弟子の大山名人(当時)との王将戦で、再び名人を香落ちに指し込む。今度は実際に対局し、大山に勝っている。
升田幸三実力制名人は、非現実的な目標であった『名人に対して香を引く』を実現するという快挙を成し遂げます。
後にも先にも、名人を相手に香車を引いて対局をしたのは升田幸三ただ1人であり、当然名人に香車を引いて勝ったのも升田幸三のみである。
当然ですが、名人に対し香車を引いて公式戦を戦ったのも、その対局に勝ったのも升田幸三実力制名人ただ一人です。
10位:名人戦中止の危機? 主催者が朝日新聞から毎日新聞へ
1612年から続く将棋における最高の称号で、1935年に実力制に移行され、1937年から名人戦としてタイトル化された。
他の棋戦やタイトルはスポンサーが管理するものであるのに対し、名人戦だけは日本将棋連盟が管理するタイトルに対してスポンサーが付く形になっている模様。
1976年この年、日本将棋連盟が名人戦の契約金として、前年の1億1000万円から3億円(名人戦2億円、順位戦1億円)の大幅な増額を要求している。
日本将棋連盟は、名人戦の賞金総額が囲碁の棋聖戦より低いことを不服として、契約金の増額を要求します。
朝日新聞社はこれを拒否し、前年と同じ1億1000万円と一時金1000万円の合計1億2000万円の案を提示した。連盟は要求額を1億6000万円に引き下げたものの、双方の溝は埋まらず、同年7月に契約は打ち切られた。
当時の名人戦主催者だった朝日新聞は日本将棋連盟の要求を拒否し、契約切れという最悪の結末を迎えました。
その後毎日新聞社が交渉に参加し、9月には契約金2億円で翌1977年度からの名人戦の主催を行うことが決定した(1976年度の順位戦、1977年の名人戦は中止された)。
その後、毎日新聞が名人戦の主催者となりましたが、名人戦および順位戦は1年間中止する事態となりました。
9位:最年少八段へ、木村義雄の活躍
22歳の若さでの八段は前例のない快挙であったが、木村はそれでは満足せず、他の先輩格の八段全員を半香の手合いに指し込む快挙をなしとげたという。
八段は当時の最高段位で、木村義雄十四世名人は22歳でその最高段位に達します。
しかも、本来はその1年前に資格を得ていながら、あまりに若く自ら辞退していたのです。
リーグ戦の結果、1位の木村が2位の花田に8.1点の差をつけ、六番勝負は実施されず木村の名人位獲得となった。
その後、木村義雄十四世名人は、名人戦の特別リーグで勝利し初代の実力制名人となります。
将棋界の第一人者として最強を誇り、当時の上位棋士を全て指し込むなど、戦前・戦中の将棋界に名を轟かせ、「常勝将軍」と呼ばれ恐れられたという。
当時は世間的にもよく知られた棋士で、現在の羽生善治三冠のような存在だったようです。
現在でも木村美濃、木村定跡などでその名前が残っています。
8位:三冠独占!升田幸三の活躍
升田幸三実力制名人は、戦後間もない時期に大活躍した棋士で、初めて複数のタイトルを独占(三冠)した棋士でもあります。
また、そのキャラクターから、亡くなった今での多くのファンがいることでも有名です。
※実力制名人という称号は、実質的に升田幸三のためだけに作られた称号です。
王将・九段を保持していた升田幸三氏は名人戦で大山康晴名人に挑戦。第6局を制し4-2で名人位を奪取、史上初の将棋3冠王に輝いた。
引用:http://showa.mainichi.jp/news/1957/07/post-834d.html – 毎日新聞
升田幸三実力制名人の三冠達成は1957年7月11日の出来事で、当時はタイトル戦が3つしかありませんでした。
将棋史上初の三冠(名人・王将・九段)制覇を成し遂げた時「たどり来て、未だ山麓」との言葉を残す。
升田幸三実力制名人は、数々の名言を残す棋士としても有名でした。
順位戦A級から一度も陥落することなく1979年に引退した。
その後も生涯A級棋士を貫きました。
7位:中原誠の登場!
大山康晴全盛の時代に現れた天才棋士で、プロ入り後1回もつまずくことなくA級棋士にまで上り詰めた他、20歳の若さでタイトルを奪取した。
その後、大山康晴の時代は終焉し、中原誠が将棋界の大盟主となっていく。
1965年秋18歳でプロ入り後は、順位戦において4年連続で順調に昇級・昇段を重ねていき、最速でA級八段となった。
中原誠十六世名人は、プロ入り後足踏みすることなくA級棋士となりました。
タイトル奪取は弱冠20歳(当時最年少)の偉業であった
タイトルのあっという間に獲得します。
1972年の第31期名人戦七番勝負(中原4-大山3)で大山と戦う。フルセットの戦いの末に勝利し、棋界の頂点である名人位に初めて就く。この年度は、初めて三冠王となるとともに、大山を無冠に転落させた。
中原誠十六世名人の登場により長らく続いた大山時代が終わり、中原十六世名人が将棋界の頂点に立ちます。
6位:谷川浩司21歳で名人へ!
加藤一二三以来の中学生棋士で、獲得が難しい名人位を21歳の若さで獲得し、その後永世名人にまで昇り詰めた。
現在も現役棋士で、将棋連盟の会長でもある。
中学2年時代の1976年12月20日に四段に昇段してプロデビューした。
加藤一二三九段以来の中学生棋士誕生は、将棋界にとって大きな驚きでした。
谷川は、順位戦(名人戦の予選)において、最初の1期(1977年度)だけ足踏みをする。しかし、その後は4期連続昇級して一気にA級に上がる。
加藤一二三九段と同じように、谷川浩司九段も10代でA級棋士となった数少ないプロ棋士の1人であります。
第41期名人戦(谷川4-2加藤)において、第6局(1983年6月14日 – 6月15日)までで勝ち、初タイトル・名人を獲得。史上最年少名人(21歳)の記録を打ち立てた。
挑戦することがもっとも難しい名人を21歳で獲得した谷川浩司九段は、昭和を代表する天才棋士の1人です。
5位:神武以来の天才・加藤一二三現る!
史上初の中学生棋士で、その後一気に名人に挑戦した伝説的な棋士。
将棋界における当時の衝撃は、相当のものであったに違いない。
現代も現役棋士(最古参)である。
1954年に史上最年少棋士・史上初の中学生棋士となる。
加藤一二三九段は史上初の中学生棋士で、当時樹立した最年少記録は62年間抜かれることはありませんでした。
順位戦で4年連続昇級して18歳でA級八段となるという偉業を成し遂げ、「神武以来の天才」と呼ばれた。
中学生でプロ棋士になったことだけでも驚きでしたが、順位戦を4期連続で勝ち上がり10代でA級棋士となりました。
A級順位戦の1年目は負け越したが、2年目(1959年度)で第19期名人戦(1960年)の挑戦権を得、20歳でタイトル初挑戦。
若干20歳での名人挑戦は、将棋界で今後抜かれそうもない記録の1つとなっています。
※現在は将棋棋士の数が多いので、順位戦をスムーズに勝ち上がるのがとても難しい。
4位:陣屋事件 升田幸三の対局拒否騒動!
元は三井財閥の御寮平塚園で、1918年に創設された。
また、宮崎駿監督の親族が女将を務めていて、宮崎作品にも影響を与えているという。
近年、将棋のタイトル戦に使われることが多く、陣屋事件の舞台にもなっている。
1952年(昭和27年)2月18日、神奈川県の鶴巻温泉の陣屋旅館で行われる予定だった、将棋の王将戦第1期第6局で、升田幸三が木村義雄との対局を拒否した
陣屋で対決予定だった王将戦を升田幸三八段(当時)がまさかの対局拒否。
この出来事は、対局場所の名前をとって陣屋事件と呼ばれるようになります。
ちなみに、七番勝負の結果は既に升田幸三八段の勝利が決まっていた。(当時は勝敗が決まっても7局目まで対局を行うことになっていた)
第6局は升田の香落ちで指される予定だった。高柳敏夫八段は「玉音放送以上の衝撃だった」と語っている。
対局を拒否した理由は、名人相手に香落ちで指すことを升田幸三八段(当時)が失礼であると感じたためと言われています。
高柳敏夫八段は、この出来事を太平洋戦争終結の際に流された玉音放送以上の衝撃と言っているので、将棋界にとって本当に大きな衝撃だったのでしょう。
事件の真相は不明であるが、時の名人に対して駒を落とすことが、名人の権威を汚すことになるのではないかと考えた升田が、ベルが鳴らないことを口実に対局を拒否したのではないかといわれている。
その後、升田幸三実力制名人の対応を巡って将棋連盟が大混乱したことは言うまでもない。
3位:坂田三吉vs木村義雄 南禅寺の決戦!
明治から昭和初期に活躍した名棋士で、家が貧しく字も書けなかったが、将棋はめっぽう強く、推挙制であった当時の名人候補に上がっていた。
死後、半生を描いた舞台や映画が多数制作され、坂田三吉は広く知られる人となった。
将棋連盟から、名人と王将の位を贈呈されている。
阪田の復帰を記念し、読売新聞社主催で特別対局が行われることになった。既に名人の関根は引退を表明しており、関根の弟子で次期名人の最有力者であった木村義雄が対局に臨むことになる。
対局の舞台は京都の南禅寺。1937年(昭和12年)2月5日から7日間、持ち時間30時間というルールの下で行われた。
現在タイトル戦における最長の持ち時間は9時間なので、30時間という持ち時間が異常に長いことがわかります。
対局場所が南禅寺だったことから、この一戦を『南禅寺の決戦』と言います。
阪田の孫弟子に当たる内藤國雄は、自著『阪田三吉名局集』(講談社, 1979)の中で、この南禅寺の決戦を「三百七十年に及ぶ将棋の歴史の中で、最大の一番」と記している。
内藤國雄九段は、この対局を370年で最大の一番と称しました。
ちなみに結果は、95手で先手の木村義雄八段(当時)の勝利でした。
2位:大山康晴タイトル五冠完全制覇!!
1950年初タイトル(九段)を獲得して以降、およそ20年近く将棋界のトップに君臨した昭和の大棋士。
1992年生涯現役を貫き、A級棋士のまま死去した。
1959年(昭和34年)に三冠王となった大山は、1960年(昭和35年)創設の王位戦で王位を獲得して初の四冠独占をし、そして1962年(昭和37年)創設の棋聖戦で棋聖位を獲得して初の五冠独占(名人・十段・王将・王位・棋聖)を果たした。
大山康晴十五世名人は、5つまで増えていた当時のタイトルを1人で独占します。
、1963年(昭和38年)から1966年(昭和41年)にかけてはタイトルを19連続で獲得し、その間、他の棋士達にタイトルを一つも渡さなかった。
五冠のタイトルは、なんとまる3年以上維持し続けます。
これは、七冠を独占した羽生善治三冠以上の実績と言うことができます。
1959年 – 1966年(昭和34年 – 昭和41年、36歳 – 43歳)頃はタイトル棋戦でほぼ無敵の極盛期であり、1962年 – 1970年(昭和37年 – 昭和45年)頃も四度、五冠王になった。
大山康晴十五世名人は、1960年代に圧倒的な強さでほとんどのタイトルを独占し、タイトルが今ほど多くなかった時代に80期というタイトル数を誇りました。(ただし棋士の人数も今より遥かに少なかった)
1位:一世名人から実力制名人へ移行!
1612年から続く将棋における最高の称号である。
かつては世襲制や推挙制であったが、1935年に実力制に移行されること発表され、1937年から名人戦としてタイトル化された。
現在は、プロ棋士のNo.1を決めるタイトルであり、もっとも獲得するのが困難なタイトルである。
小野五平が91歳までの長寿であったため、関根が名人の座に就いたのは、すでに盛りを過ぎていた頃であった。そこで、将棋連盟顧問の中島富治が実力による短期名人制を発案し、関根自身も英断を行う。
当時、推挙制だった名人の称号でしたが、名人を移行する際の年齢などの問題により実力制(実際に対局して名人を決める方法)が提案されます。
日本将棋連盟が1935年に「昭和12年(1937)に300年続いた一世名人を廃する」と発表し、2年後の1937年に十三世名人の関根金次郎が声明書を出して名人位を返上。
関根金次郎十三制名人のこの英断がなければ、現在の将棋界の発展はなかったと思われます。
1937年に短期実力制名人位制度が開始された。
世襲制、推挙制と続いた名人の称号が、この日ついに実力制に変わりました。
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