将棋のおける女流棋界で起こったビックニュースをランキング形式でまとめました。
※ランクは個人の判断によるものです。
10位:女流棋士会の発足
1989年、女流棋士発足15周年記念パーティの成功を機に、日本将棋連盟傘下の任意団体として、日本将棋連盟女流棋士会が設立された。
日本将棋連盟の中で曖昧な立場だった女流棋士でしたが、1989年に女流棋士会が設立され女流棋士たちは一致団結して活動していくことになります。
9位:日本将棋連盟とLPSAの対立
、2012年7月にLPSA所属プロとなった渡部愛の処遇(具体的には連盟主催の棋戦への出場資格)を巡り、プロ棋士としての処遇を求めるLPSAとそれを認めないとする連盟(並びに各棋戦のスポンサー各社)との対立が2012年末に深刻化したとしている。
日本将棋連盟から独立して作られた日本女子プロ将棋協会(LPSA)は、自団体がプロ認定した渡辺愛の棋戦出場について日本将棋連盟と対立します。
当時の代表だった石橋幸緒女流四段(当時)は、対局をボイコットするなどし女流棋界は混迷を深めていきます。
2014年2月25日に開催されたLPSAの定時総会で、代表理事の石橋を含む当時の執行部がほぼ総退陣した(石橋はLPSA自体からも退会)。代表理事の地位にあった石橋は退任の日、主張を裏付ける書類を公開した。
結局この問題は、LPSA側が日本将棋連盟とスポンサー側に謝罪する形で終結し、石橋幸緒女流四段(当時)は代表を退任するとともに、女流棋士も引退しました。
このことにより、LPSAは団体独自のルールでプロの女流棋士を認定することが不可能になった他、初代代表の中井広恵女流六段が脱退による離脱、2代目代表の石橋幸緒女流四段も引退と、LPSAの顔とも言えた女流棋士2人をも失い、団体の存在意義にすら危うい状況となります。
事実、LPSAが独自で行っていた棋戦はこの時期を境に休止状態になっています。
8位:史上初の外国人女流棋士誕生!カロリーナ・ステチェンスカの登場
関東研修会例会で3勝1敗とし、直近9勝3敗の成績として、外国人で初めてとなる女流3級の資格を獲得。その後申請し10月1日付けで女流3級として、将棋界初の外国人プロとなる。
囲碁の世界には青い目をしたプロ棋士が存在していましたが、将棋界でも男女含めて初めてとなる外国人プロ棋士が誕生しました。
ちなみに出身はポーランドです。
2008年、自身が愛読していた『NARUTO -ナルト-』の登場人物奈良シカマルが指していた将棋をインターネットで調べたのがきっかけで将棋に興味を持った。
カロリーナ・ステチェンスカ女流3級が将棋を覚えるきっかけになった漫画が、『NARUTO』という将棋との関係性が薄い漫画だったことも話題になりました。(NARUTOで将棋の話題が出てくるのはワンシーンのみ)
7位:突然の失踪? 林葉直子騒動
1994年5月29日、心身ともに疲労を感じ極限状態にあるのですべての活動を停止ししばらく休養したい、棋士としての処遇は日本将棋連盟理事会の決定に従うという旨の休養願いを提出。 6月9日、10日の対局に現われなかったことで、6月11日の失踪報道となる。
当時女流棋界のトップにいた林葉直子さんの失踪騒動はワイドショーで連日報道されるなど大きな話題となりました。
当時は、羽生善治の名より林葉直子の名の方が世間的認知度が高かったかもしれません。
1995年、将棋連盟を退会した同時期に写真集『CONFESSION 告白』にてヘアヌードを発表。続く一連の写真集でも豊胸術後の乳房をはじめ、肢体を露出させる。
日本将棋連盟を退会した林葉直子さんは、ヌード写真集の発売や豊胸など、将棋とは全く関係のない分野で活躍?していきました・・・
6位:小学生女流棋士誕生!中井広恵の活躍
1981年4月 女流2級でプロ入り。当時11歳10ヶ月で、史上最年少プロだった
中井広恵女流六段は、なんと小学生で女流棋士になりました。(当時の最年少記録)
女流棋界において長らく清水市代との二強時代を形成した。1993年の女流名人位戦から2007年の倉敷藤花戦までの全てのタイトル戦に、中井か清水のいずれかか両方が登場している。
中井広恵女流六段は次第に頭角を現し、ライバル・清水市代女流六段と激しいタイトル争いを繰り広げます。
5位:林葉直子の最年少タイトル獲得と女流王将戦10連覇
1980年に女流2級でプロ入りし、1982年4月に14歳で初タイトルの女流王将となる。
林葉直子さんは中学生時代の14歳で初タイトルを獲得しました。
この記録は、34年がたった現在も抜かれることのない不朽の記録となっています。
女流王将戦を10連覇
14歳で獲得した初タイトルは、その後10連覇します。
女流棋界において同一タイトルを10連覇した女流棋士は、後にも先にも林葉直子ただ1人です。
4位:女流棋士会分裂!LPSAの発足
2007年に日本将棋連盟から独立する形で有限責任中間法人団体として設立された。設立時点での女流棋士は引退したものも含めて56名であったが、39名が連盟への残留を希望したため、残る17名で独立を果たし、女流棋士の所属団体が分裂する形となった。
引用:日本女子プロ将棋協会 – Wikipedia
社会における女性の独立に伴い、女流棋士会も日本将棋連盟からの独立を模索します。
当初、女流棋士全員での独立が考えられていましたが、実際は残留派と独立派に別れ女流棋士会は分裂する形となりました。
LPSA所属の女流棋士が日本将棋連盟へ移籍届を提出し、女流棋士会からも退会。
引用:日本女子プロ将棋協会 – Wikipedia
日本将棋連盟から独立の道を選んだ女流棋士は、日本女子プロ将棋協会(通称:LPSA)を結成し、初代代表として女流棋界を代表する1人である中井広恵女流六段が就任しました。
3位:清水市代の全タイトル独占
1996年7月には、3年間遠ざかっていた女流王将に返り咲き、女流名人、女流王位、倉敷藤花と合わせて女流四冠独占を達成。これにより文部大臣表彰も受けた。
清水市代六段は当時のタイトルを総ナメし、同じ年に7つにタイトルを独占した羽生善治七冠(当時)になぞらえ、『女羽生』と呼ばれました。
2000年、5度目の女流王将位を獲得して永世位にあたる「クィーン王将」となり、他の3タイトルのクィーン位と合わせて“クィーン四冠(全4タイトルを通算5期以上獲得)を達成。その功績により、同年10月1日、女流棋士としては最高位となる「女流六段」が与えられた。
清水市代六段は、女流における永世称号であるクィーンの称号を4つ獲得し、特別な段位である女流六段を初めて与えられました。
通算女流タイトル保持は43期で歴代1位
引用:清水市代 – Wikipedia
歴代タイトル数43期は、女流の中で圧倒的な記録となっています。
2位:出雲のイナズマ!里見香奈の活躍
第6期マイナビ女子オープン挑戦者決定戦に勝利し、上田初美女王への挑戦権を得た。直前の女流名人位戦と同じく上田-里見対決となったマイナビ女子オープン五番勝負は、4月3日の第1局、4月16日の第2局、5月1日の第3局を3連勝して女王を奪取。史上初の女流五冠になった。
2004年に女流棋士になった里見香奈女流四冠は、2008年にタイトルを奪取して以降、あっという間に女流棋界トップの実力者となり次々とタイトルを獲得。
タイトル戦では14期連続勝利を重ね、史上初の女流五冠タイトル保持者となります。
奨励会員としては、2013年7月29日の関西奨励会例会にて昇段規定(12勝4敗)を満たし、女性初の奨励会二段に昇段した。さらに同年12月23日、関西奨励会例会にて昇段規定(12勝4敗)を満たし、奨励会三段に昇段。
里見香奈女流四冠は、女流棋士の活動と並行して特例で奨励会にも入会し、女性初の二段、三段と昇段していきます。
マイナビ女子オープン一斉予選第1局で、中井の持つ公式女流棋戦最多連勝記録に並ぶ19連勝を達成、同日行われた第2局も勝利し、最多連勝記録を更新。
体調不良などによりタイトルを失冠していった里見香奈女流四冠は、1年弱の休場をします。
休養明けは将棋感・勝負感の鈍りも心配されましたが、そのような心配は無用でなんと休場明けから21連勝をあげ、2016年10月21日時点で復帰以降44勝4敗という驚異的数字を残しています。(復帰以降、里見女流四冠に勝ったのは清水市代女流六段と伊藤沙恵女流二段のみ)
1位:史上初の女性棋戦、女流名人位戦開催!!
1974年(昭和49年)に、報知新聞からプロ野球のオフシーズンの女流棋戦の開催を打診された。当時、女性への普及の企画を模索していた日本将棋連盟にとってもありがたい話であって、女流棋戦開催にこぎつけるまで2か月という驚異的スピードで話は進んだ。
将棋は男が指すものという考えも時代の流れと共に薄れ始め、女性でも強い将棋指しが増えていきます。
1962年には蛸島彰子が奨励会に入会した他、ゴルフのレッスンプロのような形で活動する女性も出てきました。
そのような状況の中で、女性による新たな棋戦創設の気運は次第に高まっていきました。
1974年10月31日、将棋会館において第1回女流名人位戦が始まった。この年が女流棋士の誕生であり、「発足*年パーティ」でも逆算するとこの年である。
引用:将棋のタイトル在位者一覧 (女流棋戦) – Wikipedia
1974年、初めての女性棋戦『女流名人位戦』が始まり、この年をもって女流棋士は誕生となりした。
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